ジャーナリスト&編集者が語る プロフェッショナルたちの「BMW Life」 第6回・モータージャーナリスト 山口 京一
(画像左)イセッタ300と著者。大阪国際見本市展示のため往復自走。頼りになるチビであった。
(画像右)大阪国際見本市のインポーター・ディーラー共同展示。R69は、ドラッグレース用で「グラスボーイ」の力作。
世界有数の自動車大国である日本では、毎年数限りない新型車たちがリリースされます。
それら新型車にいち早く試乗し、魅力や特徴をユーザーやファンに紹介する役割を担っているのが自動車ジャーナリストや自動車専門メディアの編集者の皆さんです。連載形式で展開するこのコーナーでは、そうした方々の中でBMWを愛用している、もしくは愛用していた経験のある方々から、BMWと暮らすことの愉しさや、より深くBMWの魅力を味わうためにBMW Serviceをどう活用すればよいか、といったノウハウを伝授していただきます。
第6回・モーター・ジャーナリスト山口 京一のBMW Life
BMWサービスの原点を語ろう
日本におけるBMWサービスの昔話を語るため、いきなり60年前にワープする。1958年、私はBMWを輸入販売する外資系貿易商社(バルコムトレーディング)に入社した。自動車部長アシスタントというと聞こえがいいが、内幸町本社の大部屋の一角にある自動車部は、BMWから出向したヘルマン・リンナー部長、秘書女史、私の3人。仕事は、省庁や同業協会などとの折衝、宣伝広報、そしてレース活動裏方など、何でも屋であった。
1950年代末は、まだ日本の自動車不自由時代で、一般向け新車輸入販売は基本的に禁止されていた。当時のBMW製自動車は、VIP向けの高価格車「500シリーズ」と軽より小さい「イセッタ」に限られ、この極端な大小のラインアップ故に本体の経営状態は厳しかった。初期のイセッタは少数が輸入され、“トライベース・モーター”なる店を通じて米軍人、軍属、家族に苦労しながら売った。いまクラシック・イベントで見かける、前フェンダーにメッキパイプ製フェンダーを生やしたクルマがこれら「USモデル」である。
日本で正式に販売されたのは、イタリア設計のオリジナルからBMW式にフルチェンジした「300」で、性能、快適性ともに格段に改良された。私も社用の250を退職時に安く譲ってもらい、しばし愛用した。
サービス部門は、品川の第一京浜に面した店舗風の構えだった。責任者である“ジローさん”こと山田治郎マネジャーは、元フライトエンジニアで、飛行中のエンジン整備など、面白い体験談を聞かせてくれた。BMWサービス担当チーフは、「502」のV8エンジンからレーシング・バイクのチューンまで、天与の才能と技量を発揮する中村“グラスボーイ”。メガネをかけた童顔なので、リンナー部長がそう呼び、通称になった。私は未だに彼のフルネームを知らない!
リンナー部長は1958年、販拡手段としてオートバイによる浅間高原レースへの参戦を宣言した。初戦ではR69改2台が台風接近の雨の泥濘に文字通り足を取られリタイアとなる。その年の秋に、リンナーは翌年のリベンジに向けた準備を命じた。彼、ミュンヘンの知識と人脈からチューニングパーツは取り寄せるが、それ以外はアバウトだった。59年オープンクラス国際レース用の究極兵器は大排気量だと判断したリンナーは、R69用700ccシリンダーをドイツにいるスペシャリストに注文した。その一方で山田マネジャーには、間に合わぬ場合に備えて日本でもシリンダーを作るよう命じた。ジローさん、メグロが最新エンジンに採用したセンダイト鋳造技術を探り当て、特注した。このシリンダーは、浅間の試走で右シリンダーを吹き飛ばし終わる。
私には、「世界2輪GPチャンピオン、MVアグスタが使っている気化器(キャブレター)を入手せよ」「コンロッドにマグナフラックスをかけよ」と不可思議な指示をした。「それは何ですか?」と聞くと、「それを調べ、実行するのがユーの仕事である」という具合だった。
調べると気化器は国有デロルト気化器工業社製、マグナフラックスとは磁粉探傷法で、キャブレターもコンロッドは完璧だったが、59年国際レースでは天才ライダー、伊藤史朗駆るR69改はドライブシャフト・カルダンジョイントの破損でリタイアとなる。
BMWエンジンの精度、性能、信頼性を実証するエピソードがある。58年秋、横浜ヨット社の堀内浩太郎技師からR69エンジンを購入したいとの電話があった。当時、車輪の数を問わず、日本の産業保護育成のために、完成済みエンジンの輸入は禁止されていた。事情を話すも、「人命に関わる緊急プロジェクトで、どうしても必要なのです」と堀内技師は譲らない。彼は、新潟県のダム工事現場へ供給するプロペラ艇(プロペラで推進するボート)のために軽量で信頼性の高いエンジンを必要としていたのだ。リンナー部長は完成済みエンジンの代わりに、部品を1基分注文し、腕利きの“グラスボーイ”に組み立てを委ねた。完成したエンジンはテストで35馬力を実証した。その後、特例輸入でエンジンを仕入れ、10艇を製作したと聞いた。堀内技師はヤマハに移り、その後マリーン技術役員となられた。
1959年浅間で断念した700ccエンジンには後日談がある。1966年、富士スピードウェイで開催されたレースの主催クラブが「本邦初のサイドカーレース」をエキシビションとして計画した。応じたのが東京・三田にある正規ディーラーの太田政良店長だ。彼は卓越したエンジニア・メカニックであり、自身BMW R60+スタイブなる本格的サイドカーを愛用していた。浅間時代のレーシングパーツを買い取って、ドイツから届いた700ccアルミシリンダー、ピストン、カムシャフト、デロルト気化器を組み込んだ。
太田店長の哲学「絶対的パワーがあれば、30歳を超えてもレースに勝つ」に私は賛同、製作だけでなくサイドカーに乗る羽目になった。見事優勝したがエグジビジョンなのでトロフィーなし。フジのバンク路面が鼻先15cmに迫る体験だった。
現在のBMWサービスは、これら先達の挑戦をルーツに持つ。ジローさん、グラスボーイ、そして無名の補修アルチザンたちの技量と、ブランドに対する情熱をBMWオーナーに伝え続けて欲しい。
(画像左)大阪国際見本市のインポーター・ディーラー共同展示。R69は、ドラッグレース用で「グラスボーイ」の力作。
(画像右)1958年浅間高原レースにおけるBMWチーム。前例右が中村“グラスボーイ”チーフメカニック、後列右からヘルマン・リンナー自動車部長、伊藤史朗ライダー、山田治郎サービスマネジャー、右端が著者。
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Profile:
山口京一
Jack* K. Yamaguchi
*天の邪鬼から、れっきとした日本名
1933年12月東京浅草生まれ
1958-59 東京千代田区バルコム貿易KK自動車部(当時 BMW、BSAインポーター)
1964年から自動車ライター。英MOTOR、AUTOCAR、CAR、日本ドライバー創刊期、カーグラフィック、モーターファン、モーターマガジン、OCTANEなど
1967年 米ROAD & TRACK 日本エディター
1980年 米SAE自動車技術会AUTOMOTIVE ENGINEERING誌/WEB アジア・エディター